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年次大会
大会報告:第54回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第5部会)


第5部会:理論(2)  6/17 14:30〜17:00 [西校舎・1階 513教室]

司会:芳賀 学 (上智大学)
1. 自我の可変性と時間 横山 寿世理
(駒沢女子大学・聖学院大学)
2. 社会運動と自我
――青井、塩原、栗原、曽良中の所説の検討を中心に

大畑 裕嗣 (東洋大学)
3. 再帰的近代と否定弁証法
――批判と反省の関係の社会的位置をめぐって
片上 平二郎 (立教大学)
4. 社会的表象理論の批判的検討と展開の試み
――「写真を説明する」を素材として
 [プロジェクター使用]
田邊 尚子 (一橋大学)

報告概要 芳賀 学 (上智大学)
第1報告

自我の可変性と時間

横山 寿世理 (駒沢女子大学・聖学院大学)

 精神医学ではすでに、離人症患者が感じるばらばらに分断された時間とともに、自らの自我の喪失感や離隔感を問題にしてきた。つまり、時間感覚と自我生成は密接な関係にあると考えられる。この前提に立つならば、さまざまな時間感覚に応じてさまざまな自我が形成されることになる。さらに、個人が複数の時間感覚にもとづく時間論を自在に変化させることができるならば、その自我は変化することになる。

 そこで、本報告では、時間論によって成立する自我構造が異なることを扱う。「集合的記憶」のアルヴァックスと「持続」の哲学を提唱したベルクソンとによる時間をとりあげる。アルヴァックスは集団に固有の社会時間、すなわち「時間枠組み」を提唱する。反対に、ベルクソンはそのような枠組みとしての時間を「空間化された時間」だと批判する。ベルクソンは「空間化された時間」を否定的に扱いながらも、その枠組みを前提に「持続」を明らかにした。つまり、ベルクソン的時間論は、単にアルヴァックスの「時間枠組み」を批判しているだけではないというところに、自我の可変性を論じる契機がある。

 したがって、アルヴァックス的時間論ならば自我は限定的になるが、ベルクソン的時間論ならば自我の可変性を説明できることになる。過去─現在─未来という時間の流れを枠組みというインターヴァルに区切ることだけに終始するか、持続させるかによって、形成される自我のヴァリエーションを決定するといえる。

第2報告

社会運動と自我
――青井、塩原、栗原、曽良中の所説の検討を中心に

大畑 裕嗣 (東洋大学)

 ここ20年以上にわたり、自我(自己)とアイデンティティは、社会学の人気のある主題のひとつになってきた。主として「アイデンティティの政治」との関連で、社会運動と自我の関係への関心も増しつつある。しかし、近年の研究の中では、戦後日本社会学において早くからこの主題に取り組んできた研究者たちの所説は、ほとんど顧みられることがない。本報告は、このような研究史の断絶を埋め、先行研究の問題意識の再検討を通じて、過去と現在の実り多い対話を行うことをめざす。

 青井和夫と塩原勉は、異なった自我のイメージを持ちつつも、個人の主体性と集団の規律は、どのようにして両立可能となるかという、相通じる問題意識を示した。これに対し、栗原彬は、個人のアイデンティティ、さらには諸個人の交信性-共同性が、社会運動を通じて、どのように成長、発達するかを問うた。また曽良中清司は、個人の運動参加を説明する社会的要因の規定力が、心理的要因(パーソナリティ要因)を媒介として、どのようにあらわれるかを追求した。

 自己の社会的構築に注目し、自己(アイデンティティ)それ自体よりも「自己(アイデンティティ)の語り」に関心を傾けつつ、そのような語りを運動過程に位置づけようとする最近のアプローチからすれば、上記の諸先学の問題構成は、自我に関する素朴すぎる本質主義的理解を前提としているということになり、それゆえ、上記の所説は、とうてい自らとの接点を見出せない古物にしか見えないかもしれない。しかし、そのように切り捨ててしまって、本当によいのだろうか。この点をもう一度考えてみたい。

第3報告

再帰的近代と否定弁証法
――批判と反省の関係の社会的位置をめぐって

片上 平二郎 (立教大学)

 本報告は、再帰的近代化論との比較の中で、アドルノの社会理論が持つ現代的可能性を考察するものである。ギデンズら、再帰性論者は、現代社会をモダニティが徹底化した局面として考え、その特徴として、再帰性の高まりを上げている。そこでは、行為者は、行為の社会的諸条件を反省的にとらえ、その条件すらも行為の中で再構成していくものとしてとらえられる。自らの実践の土台となる、伝統や社会構造といった自明なものまでも掘り崩す、反省性が高まった社会として、再帰性論者は、現代を考えている。個人と社会との可塑的な関係性や、個人の社会構造からの解放が、そこから生み出されるとしてとらえることで、再帰性の増大を社会批判の可能性の発展としてとらえる視点もある。このような議論は、一見、全体に対する個別のものの優位を主張し、反省を媒介とした終わりなき全体性への批判によって社会の動態性を見出そうとするアドルノの「否定弁証法」との共通点を指摘することができるかもしれない。しかし、両者の反省をめぐる議論は、その対象において質的な相違があるものと考えられる。再帰性論は、社会の制度特性としての反省性の上昇を肯定し、そこから社会の動態性を手に入れようとする傾向にある。これは、社会の全体性を徹底して批判や反省の対象としたアドルノの批判理論とは異なったものだ。この比較において、アドルノの批判理論の特徴を議論する。再帰性が全局化した現代社会における、批判と反省の社会的位置を探る試みとしたい。

第4報告

社会的表象理論の批判的検討と展開の試み
――「写真を説明する」を素材として

田邊 尚子 (一橋大学)

 本報告は、社会的表象理論について「社会的表象」という概念を批判的に捉え直した上で、具体的素材を用いて検討を加えることによって、この理論を再構成することを試みるものである。

 社会的表象理論を提唱したモスコヴィッシは、私たちの捉える現実が表象であると捉えた上で、デュルケムの「集合的表象」を「社会的表象」として概念化しなおし、社会的表象の現象を問題にした。社会的表象理論は、「社会的表象」がコミュニケーションの産物であると同時にコミュニケーションの方法となることを主張する。社会的表象理論は「社会的表象」を心的実体として想定した点で限界があるが、「社会的表象」を現象として動的に捉え、そのありようを定式化しようとした点で評価できる。報告では第一に、「社会的表象」を構成概念として捉えた上で社会的表象理論の主張を整理する。モスコヴィッシは、新奇な概念が馴致化される歴史的プロセスについて考察し、係留と物象化の二つのプロセスとして定式化した。報告では第二に、この二つのプロセスを具体的なコミュニケーション場面−−「写真を説明する」という営み−−に応用させ、二つのメカニズムとして提示する。具体的場面の検討は、社会的表象理論の主張を確認するものとなると同時に、その考察範囲を拡張するものとなると考える。この作業をふまえた上で第三に、社会的表象理論がディスコースの営みという現象をどのように捉えることができるのかを考察する。

報告概要

芳賀 学 (上智大学)

 第5部会は、第1日目午後、最大時で50名程度の参加者を得て盛大に行われた。この部会の報告は以下の4つである。まず、口火を切ったのは、横山寿世理氏(駒沢女子大学・聖学院大学)による「自我の可変性と時間」と題された報告であった。この横山報告では、ベルクソンとアルヴァックスの記憶=時間論とそこから導出される自我論について、「可変性」にかかわる共通点と相違点が整理され、現代的自我論にも通じる興味深い仮説が提出された。つづく2つ目の報告は、大畑裕嗣氏(東洋大学)による「社会運動と自我」であった。この大畑報告では、社会運動論と自我論とを架橋する業績を残した青井和夫、曾良中清司、塩原勉、栗原彬4氏の研究が取り上げられ、その基本的スタンスを独自の自我類型に整理した上で、現代の研究動向に対する意義が批判的に検討された。3番目の報告は、片上平二郎氏(立教大学)による「再帰的近代と否定弁証法」であった。この片上報告では、「批判」と「反省」を鍵概念とし両者の関係に着目しながら、ギデンスのハイモダニティ論やアドルノに対するポパーの批判に対してさらなる批判的検討が加えられ、アドルノの批判理論の可能性がねばり強く主張された。最後の報告は、田邊尚子氏(一橋大学)による「社会的表象理論の批判的検討と展開の試み」であった。この田邊報告では、社会心理学においてモスコヴィッシの提唱した社会的表象理論が取り上げられ、集合的表象をコミュニケーション過程に置き直し、動的に捉えた意義を認めつつも批判的検討が行われ、社会学に対する示唆が提示された。この4報告に共通するものは、広義の自我とそこにまつわるコミュニケーションをテーマとしていることだと思われるが、この領域への現代的関心の高さを物語るかのように、その後、部会では、制限時間を若干超過するほど、フロアの諸氏を交えて活発な質疑応答と議論が行われた。

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