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年次大会
大会報告:第54回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第9部会)


第1報告

地方鉄道廃線後の<存続の論理>の持続と変容
――日立電鉄線存廃問題における「市民フォーラム」の動きに着目して

齋藤 康則 (東京大学)

 鉄道事業法の改正(2000年)により鉄道事業者の自由な撤退が法的に容認された結果、全国各地で地方鉄道の存廃論議が浮上するようになった。本報告は2005年3月末に廃線となった日立電鉄線(茨城県日立市・常陸太田市)を事例として、約1年半にわたる存続運動が不首尾に終わった後にみられる、沿線住民団体「日立電鉄線を存続させる市民フォーラム(公共交通を考える市民フォーラム)」による高齢者移動支援事業の試みを取り上げる。この移動支援事業は時間(週1回の活動日)と対象(会員登録した高齢者)を限定し、コミュニティ組織とタクシー業者との協働(collaboration)により地域集会所における生きがい支援活動への「生活の足」の確保を図りつつ、マス的公共交通(鉄道・バス)と個別的私的交通(自家用車)の中間形態である「コミュニティ交通システム」の構築により、「買物・通院の足」の充実をも目指すものである。

 ここには、電鉄線存続運動の出発点にみられた「たった一人の足が確保されることが、どんなに波及効果を持っているか」という〈存続の論理〉の持続と変容が看取されよう。以上の非制度的対応への志向性とは、ただちに公共性(自治体による制度的対応)へと組み込むことのできない生活要求をコミューナルな仕組みにより支えようとする住民活動であり、本報告ではこうした共同的実践が立ち上がるプロセスを明らかにしたく思う。

第2報告

住民投票から勝手連へ
――住民運動の戦略と組織間ネットワーク

村瀬 博志 (一橋大学)

 1998年に徳島市で吉野川可動堰建設計画をめぐる住民投票署名運動が行われて以降、毎年、徳島県内では鋭い対立を伴う選挙が行われてきた。1999年の徳島市議選、2000年の住民投票、2001年の徳島市長選と県知事選、知事の逮捕による2002年の出直し知事選、知事に対する不信任案成立後の2003年の知事選、2004年の徳島市長選というように、他の地域ではみられないほどの大きな政治変動が、近年の徳島県では生じたのである。

 このような一連の政治変動において、大きな影響力をもったのが住民投票運動を担った人びとである。住民投票運動に始まり、かれらは県知事選挙において独自候補を擁立する「勝手連」を結成して、一度は独自候補を当選させるまでにいたる。つまり、住民投票運動において既存の政治空間に風穴をあけた運動参加者は、政党や労組などの団体勢力と共同および角逐しながら、政治的な「プレーヤー」と化していく。その展開はまた、運動参加者が政治的なアリーナを徳島市から徳島県へと拡張させていく過程でもあった。それでは、政治的なプレーヤーとなった(ならざるをえなかった)運動参加者は、どのような思いや行動によって一連の政治変動に関与したのだろうか。運動参加者や団体関係者に対する聴き取り調査のデータに基づき、かれらの思いや活動のあり方、および一連の運動に関与した個人・組織間のネットワークを明らかにする。

第3報告

戦後復興期における2つの戦災都市をめぐる想像力
――特別都市建設法「広島平和記念都市建設法」「首都建設法」の成立を事例に

寺田 篤生 (一橋大学)

 第2次世界大戦後、「特別都市計画法」によって戦災都市の指定を受けた全国115都市では、「戦災復興都市計画」が次々と策定されていった。しかしながら「戦災復興都市計画再検討に関する方針」の閣議決定をうけて、当該都市計画の事業規模は縮小されることとなる。これに危機感をもった幾つかの都市が猛烈な法律制定運動を行った結果、1949年から1951年の、わずか3年間のあいだに、15もの「特別都市建設法」が成立することとなった。各都市の法案名称の多くは、「文化」「国際」「観光」の用語が組みあわされたものであったが、これは平和(文化)国家の建設、国際社会への復帰、観光振興を目指す、戦後日本の時代的な要請と決して無関係ではなかった。1949年に成立した広島の「広島平和記念都市建設法」と、1950年に成立した東京の「首都建設法」には、法案名称に「文化」「国際」「観光」が組みあわされていないものの、それぞれ、平和(文化)国家として出発した戦後日本の象徴―モニュメント都市の建設を、そして平和国家として出発した戦後日本の首都の建設を目指すものであった。しかしながら1950年の朝鮮戦争勃発という同時代的な出来事の存在が、「特別都市建設法」の持つ意味を少なからず変化させていく。本報告では、議会議事録や、新聞雑誌記事などを素材としながら、「広島平和記念都市建設法」「首都建設法」をめぐる諸アクターの(代表的な)言説の布置を比較し、そこから透かしみる、広島―東京の2つの戦災都市を焦点とした、戦後復興期の重層的な想像力のありようを考察する。

第4報告

大学と研究者が経験した「ドイツ統一」の問題化
――ベルリン・フンボルト大学における事例研究

飯島 幸子 (東京大学)

 ベルリンの壁崩壊(1989年11月8日)の衝撃から1年を経ずして1990年10月3日、ドイツは統一を迎えるに至った。40余年にわたり存在してきた2つの国家、分断された東西ドイツがここに達成した再統一は、20世紀後半における歴史的大事件の一つと言えよう。以来15年以上を経た現在でも、私はドイツの「統一」は飽くまで進行形で語られるべきものと考える。ある程度長期のタイム・スパン下で考察することによりはじめてより精確に捉えることが可能な一つのプロセスとして「統一」を追いたい。さて、ここで私が設定した問題点は、「統一」に関して「東」側からその経験を追うことである。統一にまつわる一連の激動期は「転換期(Wende)」と称されるが、この間、旧東ドイツ社会では数多のドラスティックな体制変換を余儀なくされた。大学もしくは学界もこの例に洩れず、それは「統一」の前後を通して精力的に活動する「東」出身の研究者を見出す困難性にも顕れている。そこで、ベルリン・フンボルト大学(Humboldt-Universitat zu Berlin)の社会科学研究科(Institut fur Sozialwissenschaften)を対象に事例研究を行い、旧東ドイツに属した大学および研究者が経験した「統一」の姿を洗い出す作業を進めたい。主に一次資料分析による中間報告と、この3月に現地で行った調査結果を交えて報告する。

報告概要

伊藤 守 (早稲田大学)

 この部会では斉藤康則(東京大学)、村瀬博志(一橋大学)、飯島幸子(東京大学)の3名が報告した(寺田篤生(一橋大学)は自己都合(病気)で欠席)。

 「地方鉄道廃線後の<存続の論理>の持続と変容」のタイトルで報告した齋藤報告の狙いは、日立電鉄線存廃問題(2005年3月に廃止)を事例として、沿線住民団体「日立電鉄線を存続させる市民フォーラム」へと結集した学区コミュニティが廃線後に取り組んだ乗合タクシー事業について焦点を当てながら、このプロセスにおける市民・行政・企業の<協業>のメカニズムを明らかにすることにあった。特に、廃線後、「陸の孤島」と化した日立市南部の坂下地区と埴山学区の乗合タクシー事業について報告がなされ、両地域で廃線後も「公共交通事業のあり方」が問われ続けた背景、両地域の運動の違い、市民・行政・企業の<協業>の可能性などについて議論が行われた。

 「住民投票から勝手連へ:住民運動の戦略と組織間ネットワーク」と題された第2報告の村瀬報告は、吉野川可動堰建設計画をめぐり徳島県で行われた住民投票運動を対象に、運動参加者や政党・団体の関係者に対する聴き取り調査にもとづき、この運動が多大な影響をもつようになった要因を解明することに狙いがあった。その際、参照されたのはBeckの指摘する「サブ政治」に関する議論である。「個人」レベルの参加に軸足を置いた住民運動は「サブ政治」を発生させたが、県知事選挙に向けて「勝手連県民ネットワーク」へと「転身」した運動は、個人にレベルから組織間ネットワークによる組織連合へと移行し、「サブ政治の制度化」をつくり出したとする報告に対して、「サブ政治」と運動成立の因果関係がかならずしも明確ではないなど、突っ込んだ質疑応答がなされた。

 「大学と研究者が経験した「ドイツ統一」の問題化:ベルリン・フンボルト大学における事例研究」と題された飯島報告は、ベルリン・フンボルト大学の社会学研究科および社会政治学専攻のスタッフに対する聞き取り調査から、「東独エリートの社会的抹殺」「西による東の植民地化」とも呼ばれる「統一後の「東側」大学人の経験と大学の変革の一端を明らかにするものであった。飯島によれば、社会科学研究科の人員は1990/91に38名、1995/6年に10名に推移し、自然科学分野と有意差が見られ、統一後の人員移動には「政治的要因」がより働いていたことを予測させるという。会場からは、関係資料の公開の程度について、インタビュー対象者が大学に在職できた研究者に限定されていることから生じる問題、旧西側の研究者からの研究の有無など、多くの質問が出されるとともに、当事者の経験にもとづく研究が少ない中、今後の研究への期待が寄せられた。

 全体の参加者約10名と少なかったが、3報告すべてについて活発な議論が展開された。

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